道徳と宗教3(相互理解の重要性) -なぜ・なにを・どう学ぶのか-

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1-3.宗教、各宗教、無宗教

1-3-1.相互理解の重要性

世界には様々な宗教があり、また、無宗教の人々がいます。宗教を信じている人々の中にも熱心に教義を学び、実践する人もいれば、そうでない人もおり、無宗教の人々の中にも、自覚的に無宗教であろうとする人もいれば、無自覚で様々な宗教の影響を受けている人もいます。多くの人々は、互いの宗教に対して寛容であり、互いに平和を保って生活しています。しかし、残念ながら時にその寛容性を失い、異なる宗教、無宗教の人々の間でその違いを理由にして互いに相争うことも少なからずあります。

私としては、宗教の違いを理由とした争いの多くは世俗的な利益に誘導された、互いの宗派に対する偏見や無知により生じているものだと感じています。たしかに教義の違いを理由に論争が起こる場合もありますが、互いの教義自体をまったく否定し合うということは少なく、さらに、教義は正しいけれど、行っていることは正しくないという批判の方が多いような気がします。何より、たとえ論争が生じていても、そのために敵対してもよいと教える宗教は、少なくとも私の知るところ、後に例示する各宗教の主な宗派にはありません。多くが互いを気を付けなさいと教えることはあっても、より大切なこととして争いを諫め、平等に扱うべきことを教えています。

それでも、各宗教、無宗教の間で争いが生じるのは、互いの宗教への偏見や無知と共に、自らの宗教の教義に対して理解が不足している、または、無宗教として持っている道徳観に不足がある問題がある、そのような指導者や人々がいて、自らの世俗的な利益を守ろうとするからだと思います。そのような人々に、普段は道徳的な人々でさえも、抱えている互いの宗教への偏見や無知に付け込まれて、争いを煽られてしまうのではないでしょうか。

互いに互いの考えを知らないということは、無用な恐れや摩擦、誤解を生む原因となり、偏見や差別の温床となります。たとえ、完全な理解はできなくとも互いを知ろうとする努力を行うことが共に平和に暮らすために必要な労力となるのではないでしょうか。それは、各宗教間のみならず、無宗教の人も同じことで、宗教間で互いに偏見を持つことと、無宗教で宗教に対して偏見を持つこととは、正しく相手を知っていないこと、知ろうとしていない点においては、同じことだと思います。そこに相手はいるのですから、知る努力は避けられない労力とみなすことも大事ではないでしょうか。

もちろん、各宗教には深遠な教義があり、実践を伴った理解なくして本当の理解を得ることができないことを考えれば、互いを理解し合うことには必然的な困難さが伴います。と同時に、互いの平和を保つ目的以外に互いを比較したり、互いの教義を照らし合わせたりする必要もなく、またそれが可能であるとも思いません。しかし、そうであっても一般的な知識、教養として互いを理解し合おうとする努力は、無知を排し、無用な偏見を拭うことにつながると私は思います。そうやって身に着けた寛容は、互いの平和を守る土台となり、一人ひとりの生活の基盤を支えていくものになると思います。

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公開日時:2016年8月25日
最終修正日:2018年1月6日