道徳と宗教4(学問と宗教の違い1) -なぜ・なにを・どう学ぶのか-

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1-3-2.学問と宗教の違い

ここで少し、学問と宗教の違いについて触れたいと思いますが、そもそも学問や宗教とは何かということから考えを深める必要があるかと思います。この社会では、人が様々な考えを持って、互いに考えを伝えながら、仕事をしながら社会生活を営んでいます。おおむね日常的な会話においては、互いの考えが一々正しいとか、誤っているとか問題をせずに、日常生活が成立しています。しかしながら、時には互いの考えが異なり、どちらが正しいのかを決定しなければ、次の行動が円滑に進まない事態が生じることもあります。それは、例えば誰それのケンカの原因でどちらが悪かったのかであったり、どの芸能人が一番格好良いかなどというつまらないことまで、様々な考えがあります。

このように、内在的にしろ顕在化したものにしろ、異なる考えで正誤の判断をつける必要のあるものを主張と呼びます。学問にも宗教にも何らかの主張があります。例えば、数学であれば定理があり、定理の正しさを証明するわけですが、この定理が数学の主張となります。国語であれば、この小説は面白い面白くないから始まり、この言葉の意味はこれだあれだと様々な主張があります。宗教であれば、正義とはこういうものです、命とはこういうものです、世界とはこういうものですなどと、それぞれの捉え方、考え方、主張があります。

以上のように、学問にも宗教にも何らかの主張があることが共通点です。では、違いは何でしょうか?まず、学問について考えると、学問の主張に根拠や理由がなければ、誰がそれを正しいと納得するでしょうか?例えば、数学で定理を示し、証明を抜きにすれば正しさの主張を放棄したとみなされます。評論家が小説の優れた点を説明せずに素晴らしいと評価しても、誰がその主張を認めるでしょうか。このように学問の主張には根拠や理由が必要です。

学問の主張には根拠や理由が必要というところで、考えが止まってしまうと何も見えてきません。さらに考えを進めて、学問と宗教の違いを見ていきたいと思います。これまで、数学と国語を学問の例として示してきましたが、その主張と根拠にも大きな違いがあるような気がします。つまり、数学の定理が証明によって正しいと主張されたことと、国語の小説が面白いか面白くないかを様々な根拠を挙げて主張されたのでは、納得感、説得力、つまり、信頼度が異なります。数学で証明付きの定理を示されたら、その正しさは反論のしようがないように思います。けれど、国語でこの小説が面白いとあれやこれやと主張されても、自分が面白くないと感じればいくらでも反論のしようがあるように思われます。

以上ような主張の信頼度の違いは、各学問によって、そして各学問の主張によって異なります。文学、社会学、政治学、法律学、経済学、科学、数学などを考えてみれば、主張をする方もされる方もその信頼度に対する一定の合意がなされています。その一定の合意はどこから来るかというと、根拠の検証可能性と実際に検証されたか否かにあります。つまり、文学で小説が面白いか否かという主張は、客観的な検証方法を確立することが困難で、ある程度の不確実性を許容した説明で主張がなされており、数学の定理の証明は、その検証方法がかなり確立されているために、信頼度が高いと感じられるのです。くわえて例示すると、経済学は実験的な検証方法が取りづらい分、実験によって主張の正誤を判定することのできる科学、例えば物理学などよりは、信頼度の低い主張が含まれやすいと言えます。これは、検証方法の発達具合ということも若干ありますが、扱う対象の複雑度の違いからくる仕方のない差とも言えます。

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公開日時:2016年8月25日
最終修正日:2018年1月6日