道徳と宗教2(道徳、宗教の教育) -なぜ・なにを・どう学ぶのか-

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1-2.道徳、宗教の教育

学校で道徳の授業を受けたことのない人はいないと思いますが、授業内容はどれだけ印象に残っているでしょうか。一般に道徳の授業は授業時間も短く、なじみも薄く、その内容を心に留めている人は少ないのではないかと思います。では、宗教についてはどのような印象を持っていますでしょうか。少なからぬ人が疎遠で、近寄りがたい印象を持っているのが日本の実情かもしれません。

学生時代も社会に出てからも、人生には多くの悩みが付きまといます。誰彼とケンカしたがどうすればよいか。いじめを受けているがどうすればよいか。一体、何が正しくてどうすれば良かったのか。気を紛らわすために、美味しいものを食べたり、運動したり、色々と対処法はありそうです。健康面については、医学や精神医学から知恵を借りてもよいかもしれません。親や先生にアドバイスを求めるのもよいかもしれません。それでも悩みが深ければ、小説や歴史の中から教訓を探そうとするのかもしれません。

けれど、きっとそこには本当に納得できるだけの答えはないはずです。歴史小説、青春小説の大家、司馬遼太郎も「小説は迷う人間の作るもの、宗教は完成されたもの」という旨の発言をしていたかと思います。小説は、あくまでも小さな個人的な説で、歴史は教訓の素材にはなりますが、その教訓の取り出し方に要不要のかなめがあり、迷う人間が益々迷うことに繋がりはしないでしょうか。そして、それらの教訓は、つかの間、心に留まり、いつの間にか忘れてしまう教訓がほとんどではないでしょうか。

もしも、自分で何が正しいか、何が良いことかを知りたくて、ドラマや歌詞、小説、歴史などにそれを探し求めているようなところがあるのであれば、その人が探し求めている正しさは恐らくそこにはなく、たとえあったとしても満足いくほどのものでないのだろうと思います。その人が求めている答えは、堅苦しく偏狭で偽善的に見え、時に危険にさえ感じられる、道徳や宗教という分野にあるのだと私は思います。ただ、そう感じることを私は理解できます。広く宗教という括りにしてしまえば、そこには多種多様の教義があり、多種多様の人々がいるからです。




宗教というものは正義や生き方を説いています。であれば、学校の授業できちんと教えればよいという話になりますが、私立は別にして公立ではそうなってはいません。その理由も宗教という括りの難しさにあります。つまり、宗教には異なる宗教があり、異なる方法で異なる正義を説いているからです。さらに、正義を説く悪人もいます。正義を説ける人もそう多くはありません。つまり、どれを教えればよいのか、そこには皆が認める答えもなく、皆が信頼できる人も少ない、あるいはいないということなります。この点だけを取っても、さらに諸々の観点からも、教えるのも学ぶのも最も難しいのが道徳と宗教であると言えます。

このような理由で道徳の授業は、とくに公立においてあまり印象の残らない内容しか必然的に提供できなかろうと思います。正式な授業として道徳や宗教を満足に学べる学校も少ないのかもしれません。けれど、正しさの分別は人にとって最も大切なことですので、もしもそれを学べる環境に自分がいなければ、自分自身でそれを少しずつ学んでいくことを勧めたいと思います。

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公開日時:2016年8月25日
最終修正日:2018年1月6日

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