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連載記事「論理について~デカルトに基礎を置いて~」No.4

連載記事「論理について~デカルトに基礎を置いて~」: 1 2 3 4 (現在、第4回目まで執筆しました)

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それでは前回の続きから始めたいと思います。

「デカルトの4つの規則」はなぜ真理探究のために必要十分か

前置きと注意点

前回は、デカルトの4規則を解説しました。それは、彼が論理学の複雑すぎる諸規則の中から真理探究のために用いる、本当に必要十分だと考えた4規則でした。それでは、今回は、その4規則がなぜ真理探究のために必要十分かというその根拠についての解説をしたいと思います。

ただ、結論から申しますと、私の所感としては、デカルトの示す真理探究法は、たしかにソクラテスや他の論理学者のそれよりも洗練され具体的で真実を付いているとは思いますが、だからといってソクラテスの無知の知を克服できるものではまったくないと考えています。

たしかに、この真理探究法を実践すれば多くの科学的哲学的な真理に到達し、多くの人がそれなりに評価される発見を行うことができるようになると確信しています。デカルトも彼なりの哲学原理を発見しもしました。しかし、彼の哲学原理が完全かというと私は原理的には、いくらでも疑問を持てるということからして、そうではないと考えていますし、これから説明する演繹の一つ一つの真なることを確かめていくというデカルトの第一規則も彼自身も完全に正しいと考えた命題は彼の哲学原理しかなかったわけですから、なかなか確固として正しい結論、認識に人間が到達するなどということは難しいと私は思います。

実際に、何事につけてもそもそもデカルトの4規則を実践して実行するにはそれなりの修練と、その都度の時間的心理的な余裕が必要ですし、具体的な問題解決には何が正しかったのか正しくなかったのか完全に分かるということは、人間にはできないのだなという実感が深まるばかりであると、そう私は思います。もちろん、そうは言ってもデカルトの真理探究法が具体的な問題のより良い解決、善処には役に立つとも感じています。

このような話を冒頭からするのは、これから解説する内容がかなりの真実性を持っていると考えるからこそであり、同時に、その魅力によってその真価、限界を見誤ることのないようにという危惧からでもあります。その点においては、私としてはデカルトは少し見誤っていたと思います。ちなみに、デカルトの素晴らしい業績の中で2点の大きな誤りを上げるとしたら、このソクラテスの無知の知を軽視したことと、同時代人のパスカルが言ったという言葉(似た言葉)である「デカルトの神はキリストの神にあらず」であると私は考えています。

デカルトの真理探究法

では改めて、デカルトは彼の4規則を述べた後に、次のようにその4規則がなぜ真理探究のために必要十分かを補足します。

方法序説p29「きわめて単純で容易な、推論の長い連鎖は、幾何学者たちがつねづね用いてどんなに難しい証明も達成する。それはわたしに次のことを思い描く機会をあたえてくれた。人間が認識しうるすべてのことがらは、同じやり方でつながり合っている、真でないいかなるものも真として受け入れることなく、一つのことから他のことを演繹するのに必要な順序をつねに守りさえすれば、どんなに遠く離れたものにも結局は到達できるし、どんなに隠れたものでも発見できる、と。」

デカルトは、これゆえに4規則が真理探究のために必要十分だとは言及していませんが、論理的にはこの記述が4規則の根拠となっています。初めて読むとこの記述自体が何を意味しているのか、加えて4規則とのつながりまで理解することはなかなか難しいと思いますので、まず、この記述が何を意味しているのか説明するのが一点、次に、論理的にこの記述が4規則の根拠となっていることを説明するのがもう一点。さらにその後、三点目としてこの根拠自体にも真実性が十分にあることを説明していきます。

真理探究法の意味

それでは、第一点目からこの記述自体が何を意味しているのかを説明します。

「きわめて単純で容易な、推論の長い連鎖は、幾何学者たちがつねづね用いてどんなに難しい証明も達成する。」というのは、日本の中高で数学を学んだ方には実感としてあまりピンとこない可能性があります。というのは、この「幾何学者たち」が扱っている知識は日本の中高で学ぶ内容とほぼ同じなのですが、日本の中高では知識のみを断片的に学ぶことしかなされていません。そのように学習指導要領が構成され、教科書が記述されています。多少は証明を行う作法を学びますが、その点まったく足らないと言わざるを得ないのです。つまり、日本の教科書にはすでに「複雑で難解」な命題の「短い」推論の連鎖しか表れません。

一方で、デカルトの言及する幾何学者たちの思想を学ぶためには、「ユークリッドの原論」という本を読むと良いのです。そこには、一般にA=BかつB=CならばA=Cである、など「きわめて単純で容易な」命題(推論)から始まり、たくさんの定理を積み上げて複雑な幾何学の定理を証明していく過程が記述されています。つまり、「どんなに難しい証明も達成する」にあたる内容を知ることができます。

「それはわたしに次のことを思い描く機会をあたえてくれた。」わけです。それは、

「人間が認識しうるすべてのことがらは、同じやり方でつながり合っている、真でないいかなるものも真として受け入れることなく、一つのことから他のことを演繹するのに必要な順序をつねに守りさえすれば、どんなに遠く離れたものにも結局は到達できるし、どんなに隠れたものでも発見できる、と。」

ということでした。まず、「人間が認識しうるすべてのことがらは、同じやり方でつながり合っている」です。「人間が認識しうるすべてのことがら」に注意してください。デカルトは人間が認識しえないことがらは排除しているのです。あくまで「人間が認識しうるすべてのことがら」が、「同じやり方でつながり合っている」というのです。では、「同じやり方」とはどんなやり方かというと、「一つのことから他のことを演繹する」このやり方、つまり推論によってつながり合っているとこの文脈では解釈できるだろうと思います。

そして、その推論における注意点として、「真でないいかなるものも真として受け入れることなく、」「必要な順序をつねに守りさえすれば、」そうすれば、「どんなに遠く離れたものにも結局は到達できるし、どんなに隠れたものでも」演繹(推論)によって繋がっているために、「発見できる」というわけです。つまり、どんな真理でも発見できる探究方法であると考えたというデカルトの方法序説の核心部分が記述されています。

意味はだいたい分かったけど、まだ疑問??が多いと思います。二点目、三点目の解説を読めばさらに理解が明確になっていくはずです。

真理探究法が4規則の根拠になっている

それでは、第二点目として論理的にこの記述が4規則の根拠となっていることを説明したいと思います。というよりは、4規則はこの真理探究法を実行するための規則になっていると表現した方が正しいかもしれません。そうすると、この真理探究法がなければ4規則の価値もないのですから、その意味では「4規則を掲げる根拠」とも言えるわけです。

デカルトの上記の真理探究法を要約すると、人の認識できる対象は推論によってすべてつながっているので、正しい推論を順序良く行えばすべての真理に到達できる、というものでした。

それでは、デカルトの各4規則がこの真理探究法のどこに当たるのか、どの部分の正当性を確保するための規則なのかを確認してみましょう。

まず、第一規則です。
『第一は、私が明証的に真であると認めるのでなければ、どんなことも真として受け入れないことだった。言い換えれば、注意ぶかく即断と偏見を避けること、そして疑いをさしはさむ余地のまったくないほど明晰かつ判明に精神に現れるもの以外は、何もわたしの判断のなかに含めないこと。』

これがなければ、「一つのことから他のことを演繹する」際に「真でないいかなるものも真として受け入れることなく」を守ることができず、真でないものを受け入れて推論が間違ってしまいます。一つでも間違えれば演繹の長い連鎖の先の結論も正しいはずがなく、デカルトの真理探究法は破綻することになります。

次に、第二規則です。
『第二は、わたしが検討する難問の一つ一つを、できるだけ多くの、しかも問題をよりよく解くために必要なだけの小部分に分割すること。』

これは「必要な順序をつねに守りさえすれば」の「必要な順序」を守るために必要な規則です。「必要な順序」というのはデカルトが参考にした幾何学者たちの「きわめて単純で容易な、推論の長い連鎖」の「きわめて単純で容易な」推論であるために「必要な順序」ということです。つまり、推論は「長い連鎖」であって良いのですが、第一規則を守るために一つ一つの推論は「複雑で難解」であってはいけないのです。そのために、「必要な順序」を守って演繹をするためには、演繹以前に「きわめて単純で容易な」「小部分(小問題)」に「分割する」必要があり、これが第二規則が必要とされる根拠となります。

そして、第三規則です。
『第三は、わたしの思考を順序にしたがって導くこと。そこでは、もっとも単純でもっとも認識しやすいものから始めて、少しずつ、階段を昇るようにして、もっとも複雑なものの認識にまで昇っていき、自然のままでは互いに前後の順序がつかないものの間にさえも順序を想定して進むこと。』

これは「必要な順序をつねに守りさえすれば」の「必要な順序」を守ることそれ自体を表した規則です。つまり、前述した「きわめて単純で容易な、推論の長い連鎖」の「きわめて単純で容易な」推論であるために必要な規則となります。

最後に、第四規則です。
『そして最後は、すべての場合に、完全な枚挙と全体にわたる見直しをして、なにも見落とさなかったと確信すること。』

これは第一規則の補強でもあり、長い演繹の一つ一つの正しさ、前提から結論までの確実なつながりの確保を目的とした規則と言えます。

以上が二点目の4規則に続く真理探究法の核心部分と4規則との関係の解説となります。

真理探究法の核心部分の真実性、の前に科学理論の論理構造

三点目のこの真理探究法の核心部分の真実性についての説明に入る前に、ユークリッドの原論と現代科学の理論の論理構造、公理主義について、予告にも掲載しましたので少し触れておきたいと思います。

結論を端的に申しますと、現代科学の理論というのは、ユークリッドの原論がひな形となっています。それは、デカルトもニュートンもヒルベルトもアインシュタインも、少し彼らの研究の淵源がどこにあるのかを学べばすぐに分かることですが、ユークリッドの原論を大きな基礎においています。ソクラテスが問いと答え、つまり、根拠と推論を明晰な思考の基軸として以来、アリストテレスが論理を形式化し、ユークリッドが数学においてそれを花開かせ、のちに続く哲学者・数学者・科学者は、彼らの仕事を引き継ぎながら新たな研究を行ってきたと言えます。

デカルトがここで示した真理探究法もその枠組みのど真ん中にあると言えます。つまり、難題について問い答えする中で、矛盾を排斥しながら小問題に分割します。それはつまり、難題の持つ特徴を分解しながら帰納する過程に他なりません。そうして分解・帰納した特徴についての小問題、つまり、単純で容易な命題、これを原理、公理などとも言います、から始めて演繹的な理論体系を構築していくわけです。科学理論というものはこのように、単純で容易な原理、公理から演繹を繰り返し、組み合わせて複雑な問題についての答えを出すという論理構造を持っています。数学においてはヒルベルトがこの論理構造の精密化に先鞭を付けました。これを公理主義と言います。

このようなことを理解しながら中高大の勉学に勤しむことができるかどうか、この点が文理問わず現代の学問的な水準にある程度到達することができるかどうかの分水嶺になるのではないかと思います。つまり、現代社会に要求される合理的な思考ができているかどうかのインデックスになると思います。しかしながら、有名無名、実績の有無を問わず、数学においてさえ、そして、科学研究から遠ざかるほど、このようなことを理解し実用できている学者が少ないことを皆さんは知ることになると思います。

それは、高校数学から合理性が抜け落ちるように、どんな時代においても真理を探究しょうとする人材は、一般的な利益と反するという点において、多数にはならないという法則があるからです。しかし不思議なことですが、いざという社会的な危機における施策や、あるいはそうでなくとも科学実績の総体比や突出した実績の有無として、どの程度この現代社会に要求される合理的な思考を身に付けた人=インフラがあるかがはっきりと分かるように思います。これはもちろん、学者の煌めくような個性や天才性、あるいは倫理的な問題とは別の話であることに注意する必要があります。

少し手早く済ませすぎたかもしれませんが、話を三点目の真理探究法の核心部分の真実性に戻したいと思います。こちらの話題の方が重要であり、こちらを理解すれば上記の内容も自然と頭に入るものです。

真理探究法の核心部分の真実性

デカルトの真理探究法は、「きわめて単純で容易な、推論の長い連鎖は、幾何学者たちがつねづね用いてどんなに難しい証明も達成する。それはわたしに次のことを思い描く機会をあたえてくれた。」と、あくまでも彼自身は「思い描く」と控えめな表現に留めており、なぜ正しいのかという根拠までは語っていません。

つまり、①「人間が認識しうるすべてのことがらは、同じやり方でつながり合っている」という命題について、本当につながっているのか?という疑問が生まれます。あるいは、②「真でないいかなるものも真として受け入れることなく」ということは、本当にできるのか?、あるいは③「必要な順序をつねに守」ることは、本当にできるのか?という疑問が生じます。

改めてこの三点が正しい、あるいは限定的にでも正しければ概ね、デカルトの主張する真理探究法「人間が認識しうるすべてのことがらは、同じやり方でつながり合っている、真でないいかなるものも真として受け入れることなく、一つのことから他のことを演繹するのに必要な順序をつねに守りさえすれば、どんなに遠く離れたものにも結局は到達できるし、どんなに隠れたものでも発見できる、と。」は、正しいと言えると思います。それでは一つ一つ考えてみましょう。

人間が認識しうるすべてのことがらは、同じやり方でつながり合っている

①「人間が認識しうるすべてのことがらは、同じやり方でつながり合っている」について、まず、前にも指摘しましたが人間が認識できないことは、そもそも話の俎上から外れていることが大事です。それでは、「同じやり方でつながり合っている」という条件の「同じやり方で」をまず取り外し「つながり合っている」かどうかだけを考えてみましょう。

そうすると、「人間が認識しうるすべてのことがらは、」「つながり合っている」かどうかが論点になります。逆に言うと、人間が認識しうることがらで一つでもつながっていないものがあるか、が問題となります。ここでは、一つのつながりでも持っていればつながりがあると言え、つながりがないとは一つもつながりがないこと、であることが重要です。つまり、他のことがらと一つもつながりのないことがらで人間が認識できるものがあるのかということです。

しかし、他のことがらと一つもつながりがなければ、そのことがらを表現する手段もなければ、そのことがらが何でどうであるか判断することもできない、それは結局は、人間には認識できないということになります。つまり、他のことがらと一つもつながりのないことがらで人間が認識できることがらはないという結論を得ます。この事実を私は、他の対象から独立した対象はないと表現しています。

さらに、「人間が認識しうるすべてのことがらは、」少なくとも一つは他のことがらとつながりを持っているのですから、一見して直接のつながりを持っていないどの二つのことがらについても、他のことがらを通して、必ずつながりを持っていることが分かります。もちろん、すべてのことがらが二つ以上のつながりの固まりになって、断絶のようにつながりが絶たれていることも想定はすべきですが、少なくとも自分という存在によってその二つ以上の固まりもつながってしまいます。この事実を私は、まったく関係のない二つの対象はないと表現しています。

したがって、「人間が認識しうるすべてのことがらは、」「つながり合っている」ことまで確かめることができました。

それでは、次に「同じやり方で」つながっているかどうかを問題にしましょう。「同じやり方で」というのは前にも書きましたが、推論よってということでした。つまり、言葉で表現された命題と命題があって、前者の命題が真であれば後者の命題も真である、このような関係ですべてのことがらがつながっているのかということです。

今、あることがらは他のことがらと少なくとも一つのつながりを持っていることは分かっています。そして、その二つのことがらとつながりは人間が認識できているわけです。したがって、その二つのことがらとつながりは言葉で表現できると考えて良いでしょう。なぜなら、決して言葉で表現することのできないことがらを人間が認識できることがらに含めるべきかというと、少なくとも決して言葉で表現できないことがらは伝達もしにくく正確な認識もしにくいことがらです。その上、言葉を情報にまで拡張すれば、情報と認識はほぼ同値として捉えて良いと考えられます。したがって、認識可能性と言葉(情報)の表現可能性はほぼ同値と考えて良いでしょう。

そして、言葉で表現された二つのことがらとそのつながりは、そのつながりの真偽を問うた時に命題となります。このことは、あることがらの正しい認識(理解)において不可欠の枠組みとなります。なぜなら、他の対象から独立した対象はない、ということは裏を返せば、あることがらを認識するには、他のことがらとの関係を認識するしかないということだからです。つまり、あることがらを正しく認識し理解するということは、このような他のことがらとそのつながりを命題とした、それも真となる命題を積み重ねるということだからです。

さらに、この命題も人間が認識しうることがらの一つになります。したがって、他のことがらと少なくとも一つのつながりを持っていることが分かります。そして、その命題と他のことがらとそれらのつながり、これらをやはり新たな命題とみなして真偽を問うことができます。そして、真であればその命題についての新たな理解を得たということになります。しかしながら、その命題の真偽が確定したわけではありません。その命題と他のことがらとそれらのつながり、のそれらのつながりが推論とは限らないからです。推論であり、他のことがらが命題(この場合は根拠)であって真であれば、その命題が真であることが確定しますが、必ずしもそのような他の命題と推論を発見できる保証はどこにもありません。

つまり、ここまでであれば、「同じやり方」でつながってはいますし、すべての真理に近づき少なくとも一つの理解を得ることはできることは分かりましたが、かといって、すべての真理に到達できるとまでは言い切れません。なぜなら、真理に到達とか発見とかいうからには真理の真なることが確定する必要があるでしょう。つまり、真理が真理たる根拠を見い出すこと、演繹で繋がっていることを示す必要があります。

正直に言うと、私にはすべての真理が必ず演繹でつながっていることを示すことはできません。それは、すべての命題に根拠を見い出すことができる、ということを示す必要があるようにも思えます。しかしながら、他の雑多な命題と真理についての一定の線引きをするのであれば次のような便法を取ることはできます。

たしかに世の中には、他のことがらや命題の理解には役に立つけれど、根拠や結論とまでは言えない命題というものがたくさんあるように思います。しかし、一方で一歩進んでそのような命題の中に、仮に決して他の根拠にも結論にもなりえない命題があったとすると、つまり、他のすべての命題と推論でつながることが決してない命題があったとすると、その命題は真理の名に値するでしょうか。もちろん、そのような命題があるということを示したならば、逆にその事実こそ真理の名にも値しますが、、その命題自体は、根拠にも結論にもなりえない命題は、演繹体系という限定された関係の中では、やはり、他の命題と独立した対象として存在してしまい、他の命題の根拠にも決してならず、推論によっては決して真ともいえず、役に立たない命題として確定されているとも言えます。つまり、真理の名には値しないでしょう。

しかし、これはやはり、便法でしょう。なぜなら、すべての真理が必ず演繹でつながっていることを主張するために、真理たる条件として演繹でつながっていることを課したわけですから。しかしながら、一定の説得力があるのは、真理が真でなければならず、真であることを示すには演繹以外に方法がないと思われるからでもあります。ここに私としては、ソクラテスやデカルトの凄味があると思います。つまり、完全ではないけれども演繹以上にことがらを理解し、命題の真実性を示す方法はないだろうという示唆です。

したがって、そのような決して他の根拠にも結論にもなりえない命題には真理はなく、それらを除外することができると考えるのであれば、真理であるならば必ず演繹の根拠あるいは結論となりえるということが言えます。つまり、真理であるならば必ず同じやり方=演繹でつながっていることが言えました。ただ繰り返しますが、完全ではないけれども演繹以上に命題の真実性を示す方法はないという前提があったり、人間が認識できることがらとか、人間が正しいと理解できる命題という限定が大きいことに注意することが大切です。つまり、結局は人間が正しく理解できない真理については何も言及していないのです。

さて、以上の考察によっていかなることがらも「同じやり方で」つながっていることが分かりました。つまり、少なくともことがらに対する理解でつながっていますし、さらに一歩踏み込めば、そのことがらを含む命題を根拠あるいは結論とする他の命題との推論によってつながっているのです。これは正確に表現しましたが、一言でいえば推論によってつながっていると言えることが分かりました。

これが①「人間が認識しうるすべてのことがらは、同じやり方でつながり合っている」がかなり正しいだろうという理由の説明となります。いかがでしょうか。ここまで来るとデカルトの真理探究法が理解でき始めたのではないでしょうか。「どんなに遠く離れたものにも結局は到達できるし、どんなに隠れたものでも発見できる、と。」デカルトが主張したくなるのもうなづけるのではないでしょうか。そして、デカルトの真理探究法を実践してみたくなるだろうと、そう思います。

真でないいかなるものも真として受け入れることなく

ただ、少し立ち止まって残りの二点、②「真でないいかなるものも真として受け入れることなく」ということは、本当にできるのか?、あるいは③「必要な順序をつねに守」ることは、本当にできるのか?についても考察してその限界についてさらにきちんと理解を深めると良いと思います。

つまり、すでに言及していますが②「真でないいかなるものも真として受け入れることなく」ができるのかというと、それは理屈としてはできない、という結論になります。なぜなら、その命題あるいは推論を含んだ命題について疑問を持てばよいからです。たしかに、疑問の余地を持つことのできないほど正しそうな命題はあります。しかし、それも完全ではないのです。その命題を理解している時点で、先ほど述べた通り、理解には他の対象との関係、命題が必要となっています。そして、それはつまり、その命題を理解するために必要な命題を見い出しているのであって、その理解のための命題の連鎖を止めることはできません。仮に止めた時には、少なくとも理解は未完成であるということになってしまうからです。完全に理解していないのに完全に真であるとは言えないでしょう。この点において、ソクラテスの無知の知の方が真理に近いと私は考えています。

例えば、デカルトが哲学原理とした「われ思うゆえにわれあり」ですが、なぜ正しいのか?われとは何か?と疑問を持てば、「われとは○○で」「△△」だからこの命題は正しいという説明がなされると思います。この「われ」の理解や根拠についての少なくとも一定の考察なくしてこの哲学原理を正しいという人はいないわけです。そうすると、この「われ」への理解がなければ命題を理解できていない、ということになり、一方でわれや根拠の考察をした時点でソクラテスの重視する理解や根拠への疑問の連鎖は、すでに始まっているというわけです。そして、どちらにせよ完全に理解していないので、完全に真であるとは言えなくなります。

ただ、理論的に「真でないいかなるものも真として受け入れることなく」が完全に正しくできないとしても、現代の立派な数学理論や科学理論、法理論を執筆するには一生懸命に詰めれば心配はない、そう思います。数百年、数千年揺らがない、それぐらいの正しさを確保することはできると思います。けれど、重要なことは一歩踏み込んで疑問を持って見つけた間違い、矛盾にこそ、さらなる理論発展の発見が眠っているということです。

必要な順序をつねに守りさえすれば

最後に、③「必要な順序をつねに守」ることは、本当にできるのか?ですが、難題を小問題に分割して原理や公理と呼ばれるような単純で容易な命題から推論をし、徐々に複雑な難題へと近づいて行く、という意味では「必要な順序をつねに守」ることができると思います。ただ、まったく関係のないと考えられていたある理論(原理)が別の理論(原理)の解決に役立つこともままあります。また、一つの理論の前提を独立した重複のない原理で構成することは作法以上のものですし、その原理同士の関係が遠いほど後の演繹でつながったときの驚きは大きいようにも感じます。したがって、私の考えとしては、順序というのは相対的なもので必ずしも一列に並べられるとも、並べなければならないものとも感じませんが、ほぼ一列に並べられるほどの分解・帰納(抽象)の考察をすること、そしてそれができること自体は大きな成果を生むとも思います。

以上で、デカルトの真理探究法の核心部分の真実性の解説を終えることができました。なかなかの真実性があり、使ってみたいと思われるのではないかと期待していますが、その限界や問題点を含めて利用してみると良いのではないかと思います。

これで概ねデカルトの真理探究法の説明は終わりで、次回からは方法序説p47「私は考える、ゆえに私は存在する〔ワレ惟ウ、故二ワレ在リ〕」、デカルトの哲学の第一原理の解説から始まり、私の考察を含めてこれまで説明したことの精密化とも呼べる内容に入っていければと考えています。

ただ、ここまでの内容をある程度でも理解して活用できれば現代社会においては何も言うべきことはない、特に中高大学生であれば少なからぬ一般的な学者でも身に付けていないまったく平均以上の合理性に触れることができたのではないかと、うぬぼれかもしれませんがそう感じますので、この先に進む必要もそれほどないとは思います。ただ、好奇心があればぜひ先へと進んで頂きたいと思います。次回は、より明晰に上記の内容を理解するためのきわめて単純で容易な枠組みが提示されます。

【謝辞】
去る2022年3月23日に長年連れ添ってくれた愛犬ハラルド(愛称ハルちゃん)が亡くなりました。この記事は、彼の献身なくしては到底、書くに至ることはできませんでした。心の底よりハラルドに感謝いたします。この記事が何かしらの貢献を皆様に、社会に対してできるのであれば、それは毎日一所懸命に皆を愛し楽しく生きたハラルドのおかげ、彼の生きた証であると、本人はまったく知りもせずどうでも良いこととは思いますが、確信しています。

公開日:2022年3月30日
修正日:-