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連載記事「論理について~デカルトに基礎を置いて~」No.2

連載記事「論理について~デカルトに基礎を置いて~」: 1 2 3 4 (現在、第4回目まで執筆しました)

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論理について、本連載記事とは別の角度、高校数学の内容に沿う形で説明がなされています。数学を真剣に取り組みたい方には特にお勧めです。ただ、本連載記事を基礎としているとも言えます。

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それでは前回の続き、方法序説の解説に入っていきたいと思います。

方法序説とは

方法序説は、デカルトが自分が成し遂げた学問の大成果をどのように見い出したのか、真理を探究する方法の序説として一般の方向けに書いた書物です。序説だから本論よりも価値が低いかというと、何事もそうですが初手や始め方がその後の成果の大輪が咲くか、咲かないかの重大な分岐点になっているもので、序説には序説としての重大な価値があります。

正式な名称は「理性を正しく導き、学問において真理を探求するための方法序説」となっています。理性と真理が前提となっていることを確認すると良いと思います。理性とは、物事の真偽や分別を付ける人の判断力と言って良いと思います。真理とは、人が知る世界の普遍的な原理・原則のことで、したがって、それを知れば人間が抱く多くの疑問や問題に解答を導き出すことができる知識ということで良いと思います。

基本的にはじっくりと初めから方法序説を読んで頂けると良いと思いますし、その前提でお話をしたいと思いますが、この記事は「論理について~デカルトに基礎を置いて~」とタイトルにある通り、デカルト解説が主題ではなく、論理についての解説が主題ですので、方法序説から論理について重要と思われる箇所を抜粋して解説、議論を進めたいと思います。ただ、論理についてではありますが、結局、論理についてを解説するということは、人が考えること、つまり、真理を探究する方法、あるいは、哲学の原理そのもの、をお話しすることと要点においてはまったく同じことであると思います。

デカルトによる論理学への批判

それでは、まず取り上げたいのは方法序説(デカルト著、谷川多佳子訳、岩波文庫、以下同じ)p27「まず論理学は、三段論法も他の大部分の教則も、未知のことを学ぶのに役立つのではなく、むしろ、既知のことを他人に説明したり、そればかりか、ルルスの術のように、知らないことを何の判断も加えず語るのに役立つだけだ。」です。

まず、論理学とは何かについて少し解説しないと分からないと思います。なぜなら、論理学という科目が中高大で日本では、そして世界的にも教養科目等できちんと教えるカリキュラムを取る学校が少ないからです。その理由は、このデカルトの批判を学べば分かることになります。

そもそも論理学という学問の起こりは古代ギリシャにあります。ソクラテスの弟子のプラトン、プラトンの弟子のアリストテレスがそれまでの古代ギリシャの哲人たちが自由闊達に交わし繰り広げた思索を網羅して、考えるため、そして考えを論述するために必要な規則、それらの正しさを担保する法則を見つけ出し、整理することによってアリストテレスの論理学として大成されました。

これはなかなかすごいことで、アリストテレスがまとめたのは考えることの一般法則であり、その法則にしたがう限り、どんな学問においてもその正しさが担保されるという意欲的な挑戦だからです。例えば、有名なアリストテレスの三段論法とは、分類1が分類2、分類2が分類3に入っていた時に、分類1は分類3に入っているという一般法則を用いて、月は物体で、物体は落ちる、したがって、月は落ちるという命題が必ず正しくなるということを主張します。これだけで万有引力を推論できるわけです。

論理学は、アリストテレス以来、学問の基礎となりえるこのような考えることの一般法則を見つけ出すことを目的とし、実際に様々な「他の大部分の教則」を見つけ出してきましたし、現在でも見つけ出し続けています。現代にいたるまでその議論は精密さを増し、その発見された法則の数も増し続けています。

それで、普通の人であれば論理学、すなわち考えることの一般法則を見つけ出せたのならば、大いに学問の役に立つだろうと思い、一生懸命にその数々の教則を学ぼうとするわけです。たくさんの数学、たくさんの法律を学べば、確かに役に立つのと同じく、論理学の教則をたくさん学べば役に立たないということはありません。実際に現代のプログラミングの枠組みは三段論法とも言えるくらいで、アリストテレスの論理学も現代的な解釈においてもその輝きを失っていません。

しかし、天才デカルトは普通の人ではありません。それらは「既知のことを他人に説明したり、そればかりか、ルルスの術のように、知らないことを何の判断も加えず語るのに役立つだけだ。」と批判するのです。そして、「未知のことを学ぶのに役立つのではなく、」と、つまり、学問的な発見、真理を探求するには役に立たない、と言い切るのです。

たしかに、論理学の教則は与えられた事実を当てはめることによって、自動的に推論結果を導き出すことを特徴としており、それこそが思考を支え、簡略化してくれる論理学の長所なのですが、前提に「論理学に適用するべき事実」の抽出がきちんとなされている必要があるわけです。それなしにただ、論理学の教則に当てはめると詭弁となる恐れがあり、「何の判断も加えず語る」ことがその危険性を高めるだろうことは容易に想像できます。

ちなみに、現代数学では、これをさらに発展させてコンピュータ、特にAIに「論理学に適用するべき事実」を与えて、人間が「何の判断も加えず」に新しい定理を発見することができています。そのため、これ自体が実際、役立たずとは言えないと思いますが、それでもなお、デカルトの批判は現代の発展しつつある計算機数学にも通じるものと感じます。つまり、所詮は「限られた」既知のものから生まれた発見に過ぎないのでは、ということです。

さらに、その理由をデカルトはこう続けます「実際、論理学は、いかにも真実で有益なたくさんの規則を含んではいるが、なかには有害だったり余計だったりするものが多くまじっていて、それらを選り分けるのは、まだ下削りもしていない大理石の塊からダイアナやミネルヴァの像を掘り出すのと同じくらい難しい」。その通り、論理学は正しい教則というだけであれば、数学の法則と同じように幾らでも発見することができて、けれど、実際に活用することができるか不明な法則が数多あるのです。

たしかに数百年後にはダイヤと言われているかもしれない、けれど、現在の人からしたら使い方も下手したら本当に正しいのかすらも分からない知識の石山になっているわけです。そんなものを信じて、今を生きる自分が未知のものを発見するための道具として使うわけには行かない、というのがデカルトの主張です。

何よりデカルトが求めているのは、「既知のことを他人に説明したり」、「何の判断も加えず語る」ことではなく、「未知のことを学ぶのに役立つ」法則であり、つまり、「論理学に適用するべき事実」の発見です。そのためには、未知のものに当てはまるかも分からないおびただしい法則、道具を用いて訳が分からなくなるのは得策ではなく、確固として未知の真実にも当てはまるだろう幾つかの法則、基本的な道具をきちんと使い回せるようになる方が得策だ、と考えました。

そして、デカルトが論理学の代わりに、デカルトの未知の発見のための論理学(真理探究のための方法)とも言える4つの規則を述べることになります。これを次回、説明して参りたいと思います。

あとは、概要pdfで解説を示唆して取り残した点を補足してこの記事は終わりにしたいと思います。

論理学についての補足

論理学を創成したアリストテレスの主な法則の抽出元は、師匠のプラトンの残したソクラテスの言行になります。ソクラテス自身は、論理学という形は示さなかったものの、その言行に論理学の素となる枠組みが見事に体現されています。そして、そのソクラテスの考え方、思考方法を合理主義、つまり、きちんと道理と理屈に基づいた思考のお手本とみなして学問は発展し、さらに、デカルトがそれを再興・精錬したと捉えるのが通常の学問観と言えると思います。

有史以来、学問の天才を二人挙げるとするならば、ソクラテスとデカルトだと私は思っています。この二人は確実に学問を変え、文明を変えたといえるのではないでしょうか。それは、考えるとは何かを考え、考える方法を提案、発見した天才であり、3千年?に二人くらいしか現れない天才なのだと感じます。

そして、畏敬の念を感じるのは、ソクラテスもデカルトも彼らの発見した真理、あるいは批判は、今日の一般の政治経済社会、さらには学問にも大いに当てはまってしまうということです。世俗にまみれた政治経済社会はもちろん、それと一線を画し、真理を探求しょうと志して邁進する学問の世界においてすら、気づけばいつの間にか、デカルトの批判に当てはまってしまうような研究しかできなかったというのが普通なのです。

それがソクラテスやデカルトの発見した真理の凄味であり、そこに何とか留まろうとする人々の努力の意味と成果があり、また多くの限界もあるのだろうと感じます。これが学問の楽しさと苦しさでもあるかと思います。ただ、自分への過信がなければあまり苦しさは感じないと思います。多くの学者を見るに自分にできた発見の喜びを忘れない学者は幸せそうです。

最後に、初めに述べた「論理学という科目が中高大で日本では、そして世界的にも教養科目等できちんと教えるカリキュラムを取る学校が少ない」理由の答えを私なりにまとめると、これまでのデカルトの論理学に対する批判がその答えになってはいるのですが、第一に論理学はどこまでが誰にとって必要な内容かが分かりにくいこと、第二にその歴史も内容も適用範囲も真偽も複雑で学者によって意見が分かれていることです。

しかし、本当に大事で汎用性が高く一般の人から学者まで知っている方が良いと思われるのは、私としてはソクラテスの問答法、無知の知、デカルトの4規則、たったこれだけで足りると思います。これだけきちんと理解していれば、あとの論理学で有用な事柄は必要があれば自ずと理解できますし、学問的な真理を探求してそれなりの個性的な結果を出すことも可能だと感じます。少なくとも私自身は十分に満足しています。

ただ、これらの理解すらも学者によって意見が分かれる恐れがあり、カリキュラムを組むのが難しいかもしれません。ちなみに、ソクラテスの問答法、無知の知、デカルトの4規則は、論理学というよりその基礎、合理主義哲学、合理主義の土台と表現しても良いかもしれません。

そして、次のことも実際的にはとても重要なことですが、他の理由としては、以上のことを理解して教授する人材育成が難しいことや教授に手間と時間がかかることにも論理学を教える難しさがあると思います。第一と第二の理由を理解して、その上で大切な内容だけを簡潔に生徒に身に付けてもらうには、自分がきちんと実践的に研究などをしてその使い方を含めて理解を深める必要があります。その上、生徒とかなり時間をかけた対話を行う必要があるからです。

しかし、世界では一定数の高校や大学がこのような困難を抱えながらも以上の合理主義的、論理学的な知識を教養科目として教授しており、社会を支える重要な人材育成を担っていると思われます。将来的には日本においても多くの学校でそのようになってほしいと願っています。

公開日:2022年2月22日
修正日:-