リベラルアーツを学ぶための勉強法

リベラルアーツを学ぶための勉強法として、ウェブ百科事典ウィキペディアを検索しながらリベラルアーツを学べるサイト「リベラルアーツを学ぶ~キーワードフォルダ~」を公開しました。ちなみに、キーワードフォルダとは、弊社が開発しているウィキペディア専用の検索エンジンです。

キーワードフォルダで学べるリベラルアーツとは、西洋の文脈での一般教養を指し、現代日本社会の土台となっている基礎知識でもあります。リベラルアーツを直訳すると、自由の技術(技芸)、つまり、学ぶことで自らと他者の可能性、自由を広げることのできる知識を意味し、西洋の伝統においては、主に大学の教養過程で学ばれることになります。ただ、リベラルアーツは、学科として何か固定された知識が確立されているというわけではありません。時代や定義する教育者の思想によって多様な提唱がなされてきました。その淵源は、ギリシャ・ローマの自由市民としての教養、自由七科にあるとされていますが、近代における大学教育においては一言で表すと、自由な自己選択を支えるための考える力の養成といえるのではないかと思います。とくに、そのために必要な論理性と文章能力の養成がリベラルアーツの要になっていると思います。

リベラルアーツは、学科として何か固定された知識が確立されているというわけではないと指摘しましたが、一方で、自由な自己選択のために必要な考える力の養成には、論理性を身に着けることが必須であり、さらに、現代における自由な自己選択を行うためには、例えば科学に対する知見がなければならないのは明らかです。そして、その論理性を身に着けるためには、ギリシャ以来の哲学の系譜としてソクラテスを学ばなければおかしく、科学に対する知見を身に着けるのにデカルトを知らなければおかしい、というようにそれなりにリベラルアーツとして必須の知識というのは生じてきます。それらは、明治期、旧制高校や旧帝大の学生さんたちが一生懸命、読んでいた類の本と言えば分かりやすい方も多いかもしれません。

どの知識も嘆息するほどに洗練され、理解し、身に付けるには多大の労力を必要とします。しかし、その入り口を知っていることは、この社会で生きて行くために必要なことばかりです。つまり、考える力を磨くことにもなります。緒方洪庵の適塾出身者の福沢諭吉、橋本佐内、大村益次郎らが新たな時代を切り開く能力を発揮したのは、一生懸命に何を勉強したからか、彼らの活躍は偶然ではなく、彼らはここで言うリベラルアーツの正体を突き止めようとしていたのだろうと想像します。少なくとも私は、中高生あたりからずっとそのことに興味を寄せてきました。一つのきっかけは、バブル崩壊後の日本を目の当たりにして、この国に足りないものは何なのかという漠然とした疑問だったと思います。ただ、その疑問は、文明や学問とは何かというより深遠な問い掛けへと目を向けさせてくれるきっかけに過ぎなかったのだと思っています。そして、不完全ながらもそれなりの答えを知るようにもなったと感じています。

キーワードフォルダで挙げている私が思うところの重要かつ必須の学科を具体的に列挙すると、そこでリベラルアーツを構成するのは、道徳と宗教に対する理解、論理に対する理解、数学と科学に対する理解、法律に対する理解、文章と語学と議論の能力などです。どのような考え方にもとづいて知識が選ばれているのか、より詳しくは、なぜ学び、何を学び、どう学ぶのかをお読みください。

スマホでもタブレットでも読みやすくしてあるので、時間の空いた時に思い出して、少しづつ読み進めることができます。高校生や大学生など、時間を掛けてきちんと学ぶことのできる方は、ウィキペディアが「誰でも書き込めるウェブ百科事典」であることに注意して、紹介されている参考文献(原典)を読むようにしてください。もし、高校生(中学生)の間にこれらの本に触れる機会があれば、学力は自ずと伸び、視野もひらけ、進路選択にも役立ち、将来の生活の基礎となる学びになります。難しくても諦めずに、理解しようと取り組むことが大切だと思います。挑戦してみてください。

例えば、こんな質問に答えられることを目標としてみてください。

・世界でイスラム過激主義が問題となっています。では、なぜイスラム過激主義者は欧米やキリスト教社会を敵視するのでしょうか。そもそも、キリスト教とイスラム教の異なるところ、同じところ、その関係性はどうなっているのでしょうか。

略解: ユダヤ教⇒キリスト教⇒イスラム教と派生しています。同じ神様を信仰していますが、異なる指導者、教義を持っているために歴史的に不幸にも、様々な勢力争いを行う人たちの間に反目が生じました。

・道徳と宗教の違いは何でしょうか、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、神道、儒教の異なるところ、同じところはどこでしょうか。

略解: 一つには信仰があるかないかでしょうか。道徳のない宗教はないと思いますが、信仰のない道徳はあるようです。6つの宗教について、異なるところは信仰対象と教義でしょうか。かといって、それぞれ繋がりがないわけではありません。歴史的に深く繋がっているものもあれば、若干の繋がりが予想されるものもあり、教義においてもまったく違う部分もあれば、ある視点でみると似通った部分もあります。ただ、根本的には中身が異なるからこそ、異なる宗教として存在しています。

・君の発言は論理性に欠けると言われました。では、論理とは何なのでしょうか。国語の先生が小論文で解説する論理と数学の先生が解説する論理は違う気がしますが、なぜですか。法律や科学も論理が大切と言われますが、すべて同じことを言っているのでしょうか。

略解: 論理とは、大きくは、考える対象と対象の関係性を明確にすることと言えると思います。国語の先生は、考える単位である命題をそこまで明確にしない、また推論以外の関係性も豊富に含む論理を問題としていると思いますが、数学は命題を明確にし、主に命題間の推論(演繹)関係を問題にしています。大きくは、どの学問も論理を中心に成立していると思います。ただ、その論理の扱う対象が異なるので、表現方法や枠組み、精密化の手法や程度は異なると言えると思います。

・自分の考え方は、あるときは論理的じゃないと批判され、あるときは科学的じゃないと批判されます。二つの言葉に違いはあるのでしょうか。

略解: 論理的じゃないとは、主張に根拠がない、理由が主張の根拠になっていない、推論すると矛盾が生じる主張をしたときなどに掛けられるのではないかと思います。科学的じゃないとは、その根拠が経験的な事実やデータに基づいていないときなどに掛けられるのではないでしょうか。

・自分は文系なので、数学がどう社会の役に立っているか分かりません。とくに大学で習うような抽象的な数学は、どのような場面で用いられているのでしょうか。

略解: まず、計算が早ければ商売には大きな強みになります。岩崎弥太郎、田中角栄しかり、計算は現代でも商売における大きな強みです。大学で習うような抽象的な数学は、コンピューターからAI、すべての電化製品、経済学から人類学まであらゆる場面で用いられています。中途半端ではなく、きちんと身に着ければどんな分野でも生かされるという感覚があります。

・自分は理系ですが、法律がどのような場面で必要になるのか、今いち分かりません。とくに最近の憲法、安保法制、特定秘密法、共謀罪などの議論で、なぜ論争が起こるのでしょうか。

略解: 民主主義国家の場合、法律は国民が合意した約束という位置づけにあり、すべての国家運営は定められた約束事に基づいて、その範囲内で行うという前提があります。最近の論争の大本には、国の成り立ち、人の権利に対するあり方についての相違が横たわっていると思います。

・私は会社員ですが、友人が脱サラしました。事業運営には、会計と法律の知識が必須だと言っていましたが、会計が必要なのは分かりますが、法律知識もそれほど必要なのでしょうか。

略解: 社会活動、経済活動はルール、つまり法律に基づいて行われるので、事業が大きくなればなるほどあらゆる活動に対して法的な知識、さらには倫理的に正当な判断が社会から求められます。

・文系、理系と分かれてしまう日本社会はイノベーションを起こしにくいと聞きました。そもそも、幅広い知見や多様性がどうしてイノベーションに必要なのでしょうか。

略解: イノーベーションは、社会のニーズを新技術を核とするサービスが充足したときに起こると言えます。ニーズを知り、充足するサービスを作らなければイノベーションは起こりません。社会的なイノーベーションにおいては、新技術はあくまで道具と言えます。一方、新技術は、社会のニーズとは無関係に、主に人の科学的な興味によって生まれてきます。社会的なイノーベーションに必要なものは、豊富な学問的、科学的土壌、つまり学者たちと、社会のニーズを捉え、それを的確に充足するサービスを構築する挑戦心ある事業家たちだと思います。つまり、文系、理系の両者を理解する人材が必要となります。例えば、Apple社のジョブズもリベラルアーツがイノーベーションには必要だという旨の意見を述べていたと思います。Apple社の商売のやり方を見ていても頷ける意見です。

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