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学問と論理13(西洋近代と現代の合理主義4) -なぜ・なにを・どう学ぶのか-

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さらに、この公理主義的な考えを進めると、公理の真偽に関係なくその理論を構成することはでき、公理が当てはまるか、つまり、公理によって規定された対象間の関係が、実際の現象に当てはめられるか、それが理論を活用する上での問題となるだけ、という段階に至ります。これはつまり、理論内部の論証に対してはその公理を真として扱い、理論外部への適用については、正確には、適用前においては、公理を真偽不問にするということです。それはまさに仮定という言葉の定義そのものなので、ますます、公理主義というよりも仮定主義と呼んだ方が良いような気がしてきます。

そして、理論の根拠となる公理の細分化を徹底して、公理を明示的、画一的に表現することができると、つまり、形式化が進められると、公理や命題の意味を解釈することなく、論証を字ずらの置き換え、つまり、データ操作で可能な段階に至ります。その利点は、証明の正確性の担保や計算機の活用に道を開くことにあります。ただ、そのような形式化であっても、公理が対象の関係を規定していることに変わりはなく、計算機による形式的な論証を活用するには少なくとも論証結果の意味の解釈が必要であり、理論を外部の対象に適用するには、なおさら、対象間の関係や対応を理解する必要があると思います。つまり、どんなに形式化を推し進めても、公理の対象間の関係を規定する言葉には、意味、自然言語との繋がりが必要であろうと思います。

この理論、公理の形式化について、もう少し説明すると、形式化には公理の中で用いられる2種類の言葉に対応した2種類の意味合いがあると私は思っています。一つは、繰り返しになるかもしれませんが、公理の対象の形式化であり、公理の対象は公理によって構築された関係のみで規定され、それ以外には何の意味もない空っぽであり、対象を既定する関係こそが対象そのものとなります。したがって、対象を表す言葉はXやYなどの記号と同じで、名付けの役割、つまり、対象に紐づけされた関係を繋ぐ役割しか果たさなくなります。これは、記号と意味の分離、あるいは、意味の明示的括り出しとも言えるかもしれません。もう一つの形式化は、公理の対象間の関係を規定する言葉の形式化であり、意味を失うことはありませんが、画一的な表現に整えることで、公理の対象間の関係の操作を機械的に行うことができるようになります。これは、括り出された意味の明示、あるいは、意味の一意的な表現又は記号化と言えるかもしれません。両者を簡単にまとめると、前者は対象の形式化、後者は関係の形式化と言えるだろうと思います。この二つが形式化ということの本質であると思います。記号論理学では、後者の関係のことを述語と表現したりしますが、アリストテレスの論理学のような用語で、言語から概念を切り離そうとする割には、言語学的な用語を用いるのはチグハグで分かりにくい印象を持っています。

少し話の筋はズレますが、ここまで、公理は規定対象間の関係の記述であることを前提として来ました。では、なぜそうであるかを説明しておきたいと思います。公理とは、理論が必要とする根拠をできる限り明示しょうとする取り組みです。そのために、まず、理論が何を取り扱っているのか、その基本的な対象が明確化されます。さらに、その対象が持つ意味、つまり、性質をできる限り明示します。そして、その明示された性質のみを理論の根拠とします。そのため、基本対象を表す言葉は意味が取り払われ、記号化することになりますが、そうすると、理論で取り扱うべき基本的な対象とその性質はすべて明示されることになります。そこで、次のような疑問が生まれます。もしも、公理の中で他のすべての基本対象と無関係な対象が公理に紛れ込んでいたら、その対象を公理に含んでおく必要はあるのかと。その答えは、「必要はない」だと思います。なぜなら、無関係かつ記号化され何の意味も持たない言葉、対象から他の基本対象との間に新たな関係が生じるわけはないからです。もしも、新たな関係が生じるのであれば、それは形式化が未完であったということになります。ここが公理主義の要点でもあり、定義を廃した利点とも思えます。したがって、無関係な対象は、理論から除外するか、別の理論の対象として独立させるべきなのだと思います。このように考えきて、初めの前提に話を戻すと、一つの理論の公理の規定対象、つまり、基本対象はすべて何らかの関係によって繋がっているわけで、したがって、公理は規定対象間の関係の記述であり、それ以外ではないと言えるのだと思います。

さらに、公理が規定対象間の関係の記述であるならば、それはつまり、公理は少なくとも二つ以上の規定対象を含む「XはYと~である」という形式が望ましく、例えば「Xは~である」という単独でXの性質を表現する公理は、公理として望ましくないと主張しているのかという疑問が生じると思います。結論としては、望ましくないのだろうと私は思います。なぜなら、まず、「Xは~である」という形式で、~の部分がすべて自然言語であるならば、仮にXの部分が記号化されていて、従来の定義よりかは自然言語から切り離されていて正確だとしても、それはやはりXの定義には他なりません。そして、それ以上に、公理が規定対象間の関係の記述であることを前提とすると、もしも、~で記述されたXの性質が、公理全体に含まれた他の基本対象と無関係で孤立しているのであれば、その性質は理論において根拠として利用することができないわけで、それを公理に含める必要もないのだと思います。逆に、他の基本対象と関係している性質で、理論で根拠に利用したいのであれば、どの基本対象と関係しているのかをできる限り詳らかにして明示した方が、公理としては正確になるのだろうと思います。したがって、「Xは~である」という表現は、他の対象を省略してしまっているか、考察の余地があるか、いずれにしても少し不明瞭な表現であると言えるのだと思います。

以上のように、公理主義では、できる限り簡潔な自然言語によって定められた規定対象間の関係を公理あるいは仮定として採用していると思います。したがって、公理主義の精密さは、根拠を突き詰めること、明確で簡潔な自然言語を選択すること、基本要素を対象化してその互いの関係によってのみ規定すること、によって担保されているのだろうと思います。このような概念の対象化、関係化の出発点は集合論にあると私は思っていますが、ある意味、公理主義と記号論理学、加えて集合論を併せて、代数学ならぬ代言語学あるいは代対象学とでも表現できるような気がしています。ただ、四つ前の段落からの議論については私の勝手な見解かもしれず、様々な見解があるのだろうと思います。ここまで公理主義の説明のために用いてきた対象と関係についての考え方は、後の章で詳しく説明したいと思います。

それでは、話を本筋の形式化に戻しますと、このような形式化、又は抽象化、構造化とも呼ばれる手法は、正確に対象を認識したり、正確な議論を行ったり、さらには、多様な理論を統一したり、理論を互いに相対的に接続したり、などするためには、とても強力な手段となります。ただ、実際の現象と切り離して適用対象もない公理が正しいというのでは、そもそも何を正しいと考えているのかということにもなり、もちろん、興味を覚えた新奇な公理の探求は意味があると思いますが、興味もない無価値な理論を構築する必要もなく、このような、抽象化においては、合理主義の真実又は真理の探究という基本姿勢を思い出すことが重要になるのだと思います。逆に、ここまで対象が抽象化されているのだから、これ以上の公理はないと思い定める必要もなく、そのような時には、やはり、合理主義の基本である無知の知、謙虚に問うという姿勢が大事になるのだと思います。何より、新たな数学的対象、つまり、その対象間の新たな関係を発見すること、そのための問いをし続けること、そこにこそ、ヒルベルトが提唱した公理主義の価値があるのだろうと思いますし、現代数学の発展の原動力があるのだと思います。

ソクラテスの無知の知から始まりアリストテレスの論理学、ユークリッドの原論、時代を超えてデカルトの方法序説、ヒルベルトの公理主義を紹介してきました。その流れは、合理主義がソクラテスに始まり、合理主義における論理が数学を通して洗練されながら、デカルトの合理主義などに始まる実証主義と共に科学や他の分野へと波及していくものとして捉えてきました。ここで一つ注目しておきたいことは、確かに数学や科学を通して合理主義的な思考方法は洗練されてきましたが、一方でそれらはあくまで題材で、数学が合理的な思考方法を生み出したわけではないということです。つまり、合理的な思考方法はまず、それ自身で生み出されたのであり、限界はありつつも様々な学問の基礎になり、また限界を意識しながら応用もされてきたということです。さらに、もう一つ指摘しておきたいことは、ヒルベルトの公理主義によって非常な発展を遂げている現代数学の多様な思考の枠組みには、計算機科学と相まって、今後の学問の発展に影響を与えるだろう沢山のヒントがふんだんに存在しているということです。

現代数学ではなくとも、ここまで見てきたことからも分かるように、現代の学問の基礎である合理主義、論理をとくに数学、さらに科学や法律を通して学ぶことは、最も理にかなった勉強方法だと思います。しかしながら、以上のような歴史的背景や合理主義への理解なしに数学を学んだり、指導したりしても、合理主義、論理的な能力、思考力はそれなりにしか身に付かないと思います。さらに、ときたま、数学の論理は他の学問には応用できないといった誤解、あるいは応用における困惑を生じる場合もあります。そのような場合には、数学よりも複雑度が高く、論理に加えて実証的な検証が欠かせない、科学や法律の分野で論理的な思考の生かし方を学ぶと良いかもしれません。ただ、数学も常に自分自身や数学者同士による検証に晒されているわけであり、また、手計算や現代ではコンピュータのシミュレーションによる、実証的な観察や検証が非常に重要な価値を持っています。ぜひ、近代の大数学者であるガウスの研究姿勢を伝記などで学んでみてください。ガウスと同じように、私も数学は科学であると思っています。したがって、本来であれば実証的な取り組みも数学で学べるのだと思います。例えば、円周率を測量させたり、その範囲を証明させたり、近似値を計算させたりしてみてはどうでしょうか。その他にも数学的な法則の答えを与えずに、手計算やコンピュータによってその数値を予想させたり、証明を試みさせたりしてはいかがでしょうか。問題の出し方次第で、定理を教えるだけではない教育手法を取れば、十分に他分野への応用力を数学で培うことができると思います。つまり、これらのことを知って意識しながら数学を学んだり、指導したりすれば、合理的、論理的な思考力を鍛える上で、数学以上の題材はないのだろうと思いますし、意識的に学ぶことによってこそ、その他の学問や仕事への応用もできるようになります。

次は、以上で見てきた合理主義が培ってきた論理について、より詳しい説明をしたいと思います。

-次ページからの内容は、2018年4月より1年程度をかけて更新していく予定です。-

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公開日時:2016年8月27日
修正日時:2017年3月17日 章立てを追加。「民主主義とリベラル・アーツ」を修正。
修正日時:2018年3月02日 新しい内容を追加して、ページを分割。
最終修正日:2018年3月02日