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学問と論理12(西洋近代と現代の合理主義3) -なぜ・なにを・どう学ぶのか-

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次にデカルトから現代へと話を進めると、ユークリッドの原論が合理主義、論理の精密さを高め、その模範とされたように、現代数学がやはり、合理主義、論理の精密さを高める舞台として、重要な役割を果たしてきました。論理について詳しくは、後の章で説明したいと思いますが、その精密化は主に、数学基礎論という分野にまとまられています。関連する重要な成果を列挙すると、まず、概念の集合化、つまり、ある基準において等しい複数の対象を、一つの集りとして明確に対象化して取り扱おうとする集合論が生まれました。また、命題の正誤を真偽値、つまり、0と1などに置き換えて論理を演算として扱おうとするブール代数も生まれました。さらに、先ほど言及した公理主義という論理を形式化するための基礎も生まれましたし、論理を自然言語の曖昧な意味の世界からできる限り切り離すために、記号を使って論理を記述しょうとする試み、記号論理学の提唱もありました。くわえて、論理の対象となる命題の中身について、通常の命題論理や述語論理の他に、真偽の判別ができないものも命題として含んだり、確率的に真偽を判断したり、と多様な論理学も提唱されてきたようです。

このようなことを学ぶことは、一見、形而上学的で役に立たないようにも見えますが、実際にはまったくの実学で、現代数学の基礎であるばかりでなく、実証的な研究と結びつくことで、様々な成果を上げています。とりわけ、前段で例示した数学たちは、計算機科学、つまり、コンピュータの理論的な柱にもなっています。そのコンピュータの発展は科学の検証可能性を大幅に広げ、様々な分野が今後、科学的に実証が可能な分野として改組されていくことになると思います。さらに、今後の数百年の視点で考えれば、ユークリッドの原論の枠組みをデカルトが他の学問領域へと広げたように、それは数学基礎論のみならず、現代数学の多様な思考方法は、幅広い分野の学問の取り組み方に影響を与え、それを変え始めていますし、これからさらに変えて行くことになると思います。

ちなみに、先ほど言及した公理主義について、現代における合理主義、論理において重要な価値があると思いますので、初めて公理主義という言葉を聞いた方には難しい内容になると思いますが、もう少し説明を加えたいと思います。公理主義は20世紀の最も優れた数学者であるヒルベルトの「幾何学の基礎」によって提唱されました。「幾何学の基礎」はユークリッドの原論における公理、公準、定義をより精密化した公理という命題に統一して、ユークリッドの幾何学をさらに洗練させた著作になります。これはただの感想ですが、現代数学を支える論理の精密化が、直接的にユークリッドの原論を素材にして提唱されたという事実は、如何にユークリッドの原論の成した仕事が大きかったのかを物語っていると思います。一方で、ユークリッドの原論の論理的な側面を革新するという仕事を成し遂げたヒルベルトが、現代数学の扉を盛大に押し広げたという事実は、如何に論理に関する深い理解が数学における広範囲の応用力、思考力として有用なのかを表していると思います。

具体的には、ヒルベルトによると公理とは、ユークリッドの原論のように根拠を突き詰めて見い出された命題という点では同じですが、さらに、考察対象となるすべての命題を証明することができて、どの一つも省くことのできない、互いに演繹的な矛盾を生じない命題、あるいは仮定という精密化の条件が加わります。さらに、公理のみで考察対象の基本要素を規定し、言葉の意味による曖昧さを論証において避けるために、明示的な名付けや言い換えはあっても、言葉の意味の定義は必要ないという基本方針が加わります。[参考文献:たのしいすうがく2 不完全性定理 数学体系のあゆみ,p34~p41,p150]それは例えば、「直線の上には無数に点がある」という公理があったとすると、直線とは何か、点とは何かという幾何的なイメージを言葉や図を労して説明はしたとしても、論証の直接的な根拠としては使わないということです。代わりに、直線とは、その上に無数の点がある何か、点とは、直線の上に無数にある何か、とだけ認識し、公理から分かるその互いの関係のみを使って、論証を行っていきます。

公理のみで言葉の定義は不要というのは、公理の中で言葉が互いに規定しあっているから、又は、規定される対象以外は分かり切った言葉しか使わないから、あるいは、論証は形式的にその分かり切った言葉の置き換えで十分にできるから、という理由からだと思います。これらの点、公理という短い文章の中で、すべての言葉が厳密に意義を規定されているとも、そうでなければ分かり切った言葉であるとも思えず、さらに、論証は形式的にできても公理の適用は言葉の定義や記号の仕様がなければできず、適用を前提にしない公理など無用としか言えず、つまり、少し無茶な基本方針ではないかというのが、初めて学んだときの私の第一印象でした。現在の私の理解では、公理の中には2種類の言葉が用いられており、一つは考察対象の基本要素であり、公理によって規定しょうとする対象です。もう一つは、規定対象間の関係を記述する言葉です。

前者の言葉は、従来の定義のように自然な言語によって定義されるのではなく、公理によってのみ規定される、ある意味、定義されることになり、自然な言語とは切り離され、他の規定対象やその関係を記述する言葉とのみ繋がることになります。つまり、言葉の意味から切り離され、ただの記号として扱われることになります。後者の、規定対象間の関係を記述する言葉については、私の理解では、ここが最も重要な仮定のさらなる考察対象になりますが、できる限り簡潔で誤解のない選択された言葉を用いることを条件に、その意味については何も定義しません。つまり、自然言語との繋がりを残しており、見えない定義、実質的な定義がここに隠れていると思います。逆に、自然言語との繋がりを完全に断ち切るには、初めに感じた違和感の通り、すべての言葉を互いに規定対象としなければならず、大量の公理によって一つの新しい言語を作成する必要があるようにも思います。

もう少し詳しく、この2種類の言葉について説明をすると、公理の中ですべての単語は互いに規定し合っているので、前者が後者によってその意義、つまり、関係を規定されるように、後者も前者によって規定されています。公理主義の極端な立場(曲解?)によると、この前者による後者の規定のみで、後者の意義は規定されうることになりますが、実際には、自然言語による後者への規定、つまり、意味の補助がなければ、公理が文章としてさえ成立しないと思います。もしも、自然言語との意味の繋がりを完全に断ち切るとしたら、たとえ意味不明の形式的な論証らしきデータ操作はできても、理論の適用や論証の意味を理解することは困難になります。後者の言葉にはこのような曖昧な意味、2重の関係の規定が生じていると思います。

具体的には、公理の中の単語を記号XやYに置き換えて、公理の適用や論証に何ら変更がなければ、その単語は前者であり、意味不明で公理の適用ができなかったり、論証の解釈ができなかったりして、少しでも変わりがあるのならばその単語は後者であり、自然言語との繋がりが残ってしまっていると言えます。もちろん、後者の規定対象間の関係を記述する言葉として新たな記号を導入したとしても、その解釈に自然言語が必要な限り、自然言語との繋がりが切れたとは言えないと思います。つまり、まったく無定義の記号への置き換えで、どのような適用ができなくなり、論証が意味不明になったのかを考えれば、その単語の持つ役割、つまり、その単語が公理において構築していた関係を判別することができるだろうと思います。例えば、「直線の上には無数に点がある」という先ほどの公理があったとすると、「Xの上には無数にYがある」「XのPにはQにYがある」「XaPbQdYe」と順番に置き換えて、公理の適用や論証を行って、何ができて何ができなくなるのか、何が分かって何が分からなくなるのかを考えてみればよいと思います。

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公開日時:2016年8月27日
修正日時:2017年3月17日 章立てを追加。「民主主義とリベラル・アーツ」を修正。
修正日時:2018年3月02日 新しい内容を追加して、ページを分割。
最終修正日:2018年3月02日