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学問と論理8(ギリシャの合理主義1) -なぜ・なにを・どう学ぶのか-

古代ギリシャにおける学問の発展の秘訣は、言論の自由にありました。つまり、自由な議論が、物事の本質的な要素や構造、全体像を明らかにして行くことに繋がっていきました。そして、古代ギリシャの人、ソクラテスはこのような自由市民同士による議論を通して、人の知恵の限界、学問における人の限界があること、さらに、問うという行為でその知識の不完全な点を明らかにし、知識をより洗練させていくことができることに気付きました。そして、自分が無知であることを知っている点においては、それを知らない者よりも優れているとの言明を残しました。

学問と論理7(合理主義の定義2) -なぜ・なにを・どう学ぶのか-

正しいことに対してまで疑いをかける姿勢を懐疑主義といいます。合理主義にとっては、正しいことを知ることが目的であり、疑問を持つことはあくまでも手段となります。一方で、懐疑主義は、字面からも分かるように、疑問を持つという手段に重きが置かれます。そこで、正しいことを知るためという目的を見失う恐れが生じます。極端な懐疑主義の間違いに陥らないようにするには、疑うことではなく、物事を問うという行為、それも謙虚に問うということが大切なのだと気付くことだと思います。その根底には、真理を探求しょうとする姿勢があり、そこに合理主義の本質があるのだと思います。改めて合理主義の定義をまとめると、合理主義とは、真実又は真理を求め、謙虚に問い誠実に確認をしながら考えること、と言えるかと思います。

学問と論理6(合理主義の定義1) -なぜ・なにを・どう学ぶのか-

学問、とくに科学や法律は現代社会を支える土台であり、その知識の正しさはこの高度で複雑な社会を支える基礎となっています。逆に言えば、その知識の正確さゆえに、高度で複雑な現代文明を人々は築くことができました。そのため、学問を学ぶ前に、あるいは学ぶ中で、現代における学問が必要とする物事を正確に考える力を身に付ける必要があります。物事を正確に考える力、あるいはその方法論は、歴史的にそのような考え方、方法論が具体的に提唱されてきました。その方法というのは、一言で言えば合理主義と呼ばれる言葉で表されます。これから私なりの説明をした上で、さらにその歴史を紐解いていきたいと思います。合理主義の最も簡単な定義は、疑問を持って確認しながら考えること、と言えるのではないかと思います。

学問と論理5(その他の学問、合理主義、論理の必要性) -なぜ・なにを・どう学ぶのか-

その他に一つ重要な学問として学んでおくと良いと私が思う学問は経済学です。経済学を学ぶには、人や物についてのより深い洞察を得るために、現代社会の人と物の動きに影響を及ぼす道徳や宗教を含めた様々な学問を学ぶ必要があり、つまり、現代社会における深い教養が必要であろうと思います。その他の学問も現代社会を支える点においては、その必要性を疑う余地はありませんが、法律と科学については、とりわけ現代社会において重要な枠割を果たしている学問なので、一般市民の誰もがそれを学ぶ必要性があるものと感じています。ただ、たんに法律や科学の知識を学ぶことだけが重要なのではなく、それを下支えする合理主義、一歩進んで論理という概念を学び、身に付けることが最も重要なのだと思います。

学問と論理4(科学の必要性2) -なぜ・なにを・どう学ぶのか-

合理的、科学的な姿勢が、大袈裟ですが日本の至る所で、科学技術、医学の臨床、これまでも取り上げてきた教育や司法、捜査機関、さらに政治、有権者による選択にまで必要であると思います。より多くの人が合理的に物事を考えられる力を養うことができれば、合理主義の考え方や手法を理解して実践できれば、より良い社会の形成にほんの少しでも繋がるのではないかと思います。現代社会は、科学の上に成立しています。ただ、科学の知識を学ぶだけではなく、科学を通して、物事の合理的な考え方を身に付けるためにも、科学は学ぶ必要性があると思います。

学問と論理3(科学の必要性1) -なぜ・なにを・どう学ぶのか-

科学を学ぶ必要性は、たんに科学知識を学び、その習熟を目的とするだけではなく、科学の勉強を通して、合理的に物事を考える力を養うことにあると思います。つまり、具体的な合理主義の考え方や手法を学び、それを科学の勉強を通して意識的に身に付けさえすれば、科学の勉強や研究ほど、合理的に物事を考える力を伸ばすことができる訓練の場はないと思います。その基礎的な能力が結局は、科学研究の成功やそれ以外の分野への応用にも繋がっていくのだと思います。

学問と論理2(法律の必要性2) -なぜ・なにを・どう学ぶのか-

日本社会においては、法律への理解や法教育の重要性が浸透し切っていないように見受けられます。それは、合理性を重んじる姿勢の弱さが、現在でも一般的に残ってしまっているためだと感じています。社会で何らかの活動をするには法律を学ぶ必要があるので、必然的に皆が法律を学ぶ必要があると思います。しかし、残念ながら現在の日本の義務教育では、法教育が欠けている印象を受けますので、学校であまり習わないからといって必要ないと思うのではなく、自ら課外の時間に良い先生や良書を見つけて法律の基本を学んでいく姿勢が大切になるのだと思います。

学問と論理1(法律の必要性1) -なぜ・なにを・どう学ぶのか-

広い意味での学問が、人を人足らせ、社会を社会足らせていると言っても過言でないと思います。その中でも、法律と科学が現代社会を支える重要な学問であること、この二つを学ぶ必要性がなぜあるのかを説明したいと思います。人が二人集まれば、共同で物事を実行するため、互いの利益や不利益を解決するため、約束や規則を決めてそれを守る必要が生じます。組織を運用していくためには、できる限りの状況を想定して細分化し、それを精密に分析して共通の原則を括り出しながら、表裏や内外の不一致がないように心がけ、組織の法律、契約、規則を作り上げて行かなければいけません。結局のところ法律や契約は、内容次第、運用する人次第で、良くも悪くも利用され得るのだと思います。

文化と文明3(現代社会の教育) -なぜ・なにを・どう学ぶのか-

現代社会においては、目標が定まった中で成果を出すことを求められる場面もあれば、良い目標を探し出すことから始めなければならない場面も多くなっています。そのため、知識の検証を省いて習熟を優先させる学習よりも、各人の個性に基づく興味や疑問を大切にして、知識を検証しながら学ぶ姿勢を身に付け、思考力を持った創造性の豊かな学生を育てる教育がより求められています。

文化と文明2(現代文明の基礎) -なぜ・なにを・どう学ぶのか-

現代文明の要となる学問は、主に、明治時代に西洋から日本へ導入されました。これらをより深く知るには西洋の原典を学ぶのが大切です。優れた学問や宗教に国境はなく、どこから生まれたかよりも、今、どこが受け入れ、育んでいるのかが大事で、それを自分たちのもの、あるいは、彼らのものとする価値観ほど、偏見に覆われた態度はありません。